フュージョンを聴く

音楽と日記/フュージョン以外も聴く

日記4

私にとっての"正しさ"は、装飾が施された家具やカトラリーや音楽であったりする。映画もその類に入るのかもしれないけれど、自分にはストーリーを消化する力はないらしく、それらの魅力はまだ知らないようなものだ。いずれにしても、友人や恋人がいようがいまいが私は音楽を聴き続けていただろうし、食器や家具を集め続けていただろう。

音楽には永遠がある。ニューシネマパラダイスの主人公であるトトが成人後に映画の恋愛に永遠を見出したように、私にとっては音源の音楽こそが至上だし、そこに仕事や生活で満たされない心を満たす全てがある。その潤いは酒では得られないし、かりにクスリのようなものをやっていたとしても、音楽でならたどり着けるその境地にたどり着ける気がしない。私の依存先が音楽であったことは幸運なことだと思う。ただ、音楽に心から感動するには健全な心と身体が必要なことを私のカラダは理解しつつあり、私の中の神は「運動せよ。さらば心身健やかならん。」と宣っている。

巷ではフェスやライブが流行っていて、それに参加しようとする人たちがいる。その時の体験を消費し、その魅力をSNSで発信する。そして時にその共時的な体験を、友人や恋人たちと語り合うのかもしれない。けれども私はその良さを感じたことがあまりなくて、それは友人がほとんどいないからなのかもしれないし、通時的で受け継がれたものにしか惹かれない定めなのだろう。

 

ライブに行くとすれば、サイトウキネンオーケストラやバッハコレギウムジャパンの演奏会へ行きたいなと思う。私にとってのライブはきっと、憧れていた音楽を表現した証人に会いに行くためのものなのだろう。

山下達郎のライブには本人が存命のうちにいつか行けたらと思っていたが、やめた。そしていつか坂本龍一のライブにも行きたかったが、亡くなってしまった。孤立しながらもサウンドの審美を求めるスタンスに憧れていた彼に会う理由を、無くしてしまったように思う。一方で坂本龍一とは私との価値観が全く一緒というわけではないけれど、どんなゴシップが流れても彼を好きになっていただろうし、ライブがあったら行きたい気持ちは変わらないから、正直自分でも自分のことがよくわからない。

よく「犯罪やハラスメントを犯した人の作品に罪はあるか」という問いがあったりするけど、音楽に罪があるかどうかなんて誰にも決められるわけがはなく、ただ評価された作品は後世に残っていって、その作品が今でも聴き続けられているだけなのだと思う。そうした作品群を聴き続けているから、ますます私にとっての「音楽」が音源の音楽になっていくのかもしれない。